酒を飲むと非日常の世界に入ってしまう。
酒を飲むと人間は非日常の世界に入ってしまう。日常の世界では、小さくてみすぼらしい自分であっても、酒が入ると、何でもできる、自分は全能であると思ってしまう。それは感覚が鋭くなる、あるいは逆であるのか、説明は難しい。
酒は詩と似ている。詩も非日常の世界を語る言葉である。日常の世界はきわめて散文的である。各文章も、知人に対して「金10万円を借りたので、期日までに金利5%で返却する」というような内容である。あるいは、主婦は「本日の買い物予定、りんご5個、卵1ダース、お茶3ボトル、納豆一個」などのメモを書き付ける。
詩とは、まったく実用とはほど遠い。なくても生きていける。いや、このあたりだが、詳しい説明が必要であろう。人間は日常の連続では生きていけない。時々、非日常で爆発する必要がある。散文的な生活の中で、韻文的な生活が必要なのである。
たとえば、懲役20年で牢屋にいる囚人にとって毎日が散文的な規則的な代わり映えのない生活である。しかし、めでたく釈放される日が来たとする。それは、ハレの日、非日常の日となる。
日本語を使っている人にとって、外国語は非日常を象徴するものである。要は深くは分からない。外国語で書かれた詩となると、非日常性が重なって、きわめて分かりづらい、あるいは神秘的になる。
そんな詩の典型として、Poe の詩Raven を考えてみたい。
Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,Over many a quaint and curious volume of forgotten lore—While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.“’Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door—Only this and nothing more.”
このような詩を読んでいると神秘性は感じる。異文化であり、我々には未知であること、不慣れな英語で書いてあること、さらには英語でも古い語彙や文法が使っている。これらから、想像力を生かしてこの詩を味わなければならない。
もしも、理解が可能であるとすれば、非日常を語っているという点が突破口になる。日本語の世界での非日常から、この詩の持つ非日常へと繋がることはできる。