句またがり
近代の英語の詩は次のような原則に従っている。
詩行の右端は統語単位である節(clause)の右端と一致する。この原則に従って、詩行の右端と節の右端とが一致している詩行のことを行末終止行(end-stopped line)と呼ぶ。
下の詩ならば、3,4,5,6,7 行目がそれに該当する。
The Rainbow
MY heart leaps up when I behold 1
A rainbow in the sky: 2
So was it when my life began; 3
So is it now I am a man; 4
So be it when I shall grow old, 5
Or let me die! 6
The Child is father of the Man; 7
I could wish my days to be 8
Bound each to each by natural piety. 9
by William Wordsworth. 1770–1850
ところが、1,2 行目と8,9行目は文の途中で切れている。つまり、句またがり (enjambment)が生じている。句またがりは無韻詩で頻繁に生じる現象であると言われているが、韻律詩にも生じている。
以下は、『英語の構造からみる英詩のすがた』(岡崎正男、開拓社)の第5章を参考にしている。
Emily Dickinson の詩は多様な句またがりが見られる。主語が行末にきている。
for mine, I tell you my Heart
Would split, for size of me - (p.147)
Emily Dickinson の詩では、接続詞や前置詞が行末にくることもある。
'Tis Dying - i am doing - but
I'm not afraid to know - (p.151)
このような形式を見ると、Emily Dickinson の詩の詩行構成と異質であり、混沌としているかのように見える。しかし、じつは明確な規則性が潜んでいる。それは、Dickiinson の詩行の右端は、可能な音調句(Intonational Phrase)の右端に対応する。(p.152)
彼女の詩は、詩行を区切るときに統語構造に対応する区切り方をしていないが、音韻構造の一つである音調句に対応する区切り方をしている点で極めて規則的である。
The Grave - was finished - but the Spade
Remained in Memory -
この文では、Spade とRemained の間に音調句があるので、ここを区切ってもよい。
さらには、岡崎は、John Donne の詩や、アメリカ自由詩を取り上げて、詩の行は音調句があるときに新たな行がおかれると述べている。
ここからは、私見だが、自由詩は音声から視覚的な美しさへと比重が移ったゆえに生じたと考えたが、自由詩の場合でも音声の美しさは、無自覚的であるかもしれないが保持されていた。句またがりは、その区切りが一つの形式美を生み出すのである。その形式美を翻訳するとすれば、どのようにすべきか。
この句またがりの現象を翻訳に生かすとするならば、それは可能であろうか、