無韻詩と自由詩
西洋の韻律
西欧の韻律は、多くは古代ギリシャ・ラテンの韻律を手本として作られている。弱強の2種の音節からなる基本配列パターン(2~4音節)を詩脚(または韻脚、英語:foot)といい、詩脚が基本単位となって詩行を作る。
「弱強」の2音節からなる詩脚を弱強格(iamb)と呼び、これを中心とする詩脚が5回反復された韻文形式を弱強五歩格(iambic pentameter)という。
無韻詩
無韻詩とは、弱強五歩格の韻律にもとづき作詞されているが、行末に脚韻語がない詩形である。
無韻詩の一番のパターンは、弱強、弱強、弱強、弱強、弱強が5つ繰り返されるのである。
無韻詩には、脚韻語が無いという特徴の他に、詩行の韻律にパターンからの逸脱が見られる。さらに句またがりが頻繁に観察される。
自由詩(free verse)
自由詩は20世紀以降に、主にアメリカの多くの詩人達が用いた伝統的な詩形とは異なる形式の詩である。
ただ、自由詩と言ってもまったく自由ではなくて、詩人ごとに制約が見いだされるのである。
句またがり
近代の英語の詩は次のような原則に従っている。
詩行の右端は統語単位である節(clause)の右端と一致する。この原則に従って、詩行の右端と節の右端とが一致している詩行のことを行末終止行(end-stopped line)と呼ぶ。
下の詩ならば、3,4,5,6,7 行目がそれに該当する。
The Rainbow
MY heart leaps up when I behold 1
A rainbow in the sky: 2
So was it when my life began; 3
So is it now I am a man; 4
So be it when I shall grow old, 5
Or let me die! 6
The Child is father of the Man; 7
I could wish my days to be 8
Bound each to each by natural piety. 9
by William Wordsworth. 1770–1850
ところが、1,2 行目と8,9行目は文の途中で切れている。つまり、句またがり (enjambment)が生じている。句またがりは無韻詩で頻繁に生じる現象であると言われているが、韻律詩にも生じている。
以下は、『英語の構造からみる英詩のすがた』(岡崎正男、開拓社)の第5章を参考にしている。
Emily Dickinson の詩は多様な句またがりが見られる。主語が行末にきている。
for mine, I tell you my Heart
Would split, for size of me - (p.147)
Emily Dickinson の詩では、接続詞や前置詞が行末にくることもある。
'Tis Dying - i am doing - but
I'm not afraid to know - (p.151)
このような形式を見ると、Emily Dickinson の詩の詩行構成と異質であり、混沌としているかのように見える。しかし、じつは明確な規則性が潜んでいる。それは、Dickiinson の詩行の右端は、可能な音調句(Intonational Phrase)の右端に対応する。(p.152)
彼女の詩は、詩行を区切るときに統語構造に対応する区切り方をしていないが、音韻構造の一つである音調句に対応する区切り方をしている点で極めて規則的である。
The Grave - was finished - but the Spade
Remained in Memory -
この文では、Spade とRemained の間に音調句があるので、ここを区切ってもよい。
さらには、岡崎は、John Donne の詩や、アメリカ自由詩を取り上げて、詩の行は音調句があるときに新たな行がおかれると述べている。
ここからは、私見だが、自由詩は音声から視覚的な美しさへと比重が移ったゆえに生じたと考えたが、自由詩の場合でも音声の美しさは、無自覚的であるかもしれないが保持されていた。句またがりは、その区切りが一つの形式美を生み出すのである。その形式美を翻訳するとすれば、どのようにすべきか。
この句またがりの現象を翻訳に生かすとするならば、それは可能であろうか、
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詩は音声である。正確に言うと、元来は音声であった。しかし、書記法の普及、印刷術の進歩により、人々は書籍を手にすることが簡単にできるようになった。
すると、詩の価値は音声的な美しさから、視覚的な美しさへと比重が移行している。たとえば、『伊勢物語』は元来は音声的な美しさで評価されるべきであろう。音声的な価値から言えば、ひらがなだけで書かれることも納得が行く。(『伊勢物語』は詩と言っていいのかという疑問はここではひとまず置いておく)
しかし、視覚的な美しさが求められるようになると、漢字交じりの読みやすい文が求められるようになってくる。ひらがなだけでは、いかにも読みにくい。それから分かち書きも求められるようになる。
現代は、さらには、フォントとか紙の質とか、文字の大きさまで細かく規定するようになってくる。さらには、挿絵を入れたりと様々な工夫が必要となってきている。
英詩の場合は、どこで改行するか、どこで韻をそろえるか、大文字か小文字かなどの考慮まで必要になってくる。
しかし、音声が主体ならば、まず、詩集を買ってきてそれを読むのではなくて、CDを勝ってきて、それを何回も聞くという行為から始めるべきなのだ。
酒を飲むと非日常の世界に入ってしまう。
酒を飲むと人間は非日常の世界に入ってしまう。日常の世界では、小さくてみすぼらしい自分であっても、酒が入ると、何でもできる、自分は全能であると思ってしまう。それは感覚が鋭くなる、あるいは逆であるのか、説明は難しい。
酒は詩と似ている。詩も非日常の世界を語る言葉である。日常の世界はきわめて散文的である。各文章も、知人に対して「金10万円を借りたので、期日までに金利5%で返却する」というような内容である。あるいは、主婦は「本日の買い物予定、りんご5個、卵1ダース、お茶3ボトル、納豆一個」などのメモを書き付ける。
詩とは、まったく実用とはほど遠い。なくても生きていける。いや、このあたりだが、詳しい説明が必要であろう。人間は日常の連続では生きていけない。時々、非日常で爆発する必要がある。散文的な生活の中で、韻文的な生活が必要なのである。
たとえば、懲役20年で牢屋にいる囚人にとって毎日が散文的な規則的な代わり映えのない生活である。しかし、めでたく釈放される日が来たとする。それは、ハレの日、非日常の日となる。
日本語を使っている人にとって、外国語は非日常を象徴するものである。要は深くは分からない。外国語で書かれた詩となると、非日常性が重なって、きわめて分かりづらい、あるいは神秘的になる。
そんな詩の典型として、Poe の詩Raven を考えてみたい。
Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,Over many a quaint and curious volume of forgotten lore—While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.“’Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door—Only this and nothing more.”
このような詩を読んでいると神秘性は感じる。異文化であり、我々には未知であること、不慣れな英語で書いてあること、さらには英語でも古い語彙や文法が使っている。これらから、想像力を生かしてこの詩を味わなければならない。
もしも、理解が可能であるとすれば、非日常を語っているという点が突破口になる。日本語の世界での非日常から、この詩の持つ非日常へと繋がることはできる。
詩の起源は何か?
詩には不思議な魅力がある。朗読されてもよいし、目で読んでもよい。しかし、本来的には音声が起源であろう。現在の氏の特徴としては以下のことが言える。
- (1)読んで味わう。詩人も紙に書き付けて詩を作る。目が主体となる。
- (2)個人的な行為である。個人が頭の中で考えて作詞する。他者と共有されるときは、朗読会のような形式である。
- (3)身体が動くことはない。踊りの要素はない。静的である。
まとめると、視覚的、個人的、静的がその特徴になる。
しかし、これは原初的にはどうであったのか。おそらく、全身活動であり、集団行為であったと思われる。
日常の中にあっては、定期的に非日常の世界に入る必要がある。日常生活はいわば、散文的な世界である。韻文的な世界に入るためには非日常的な言語世界に入らなければならない。集団では、「祭り」の世界がその特徴になる。
集団で乱舞して、大きな声で歌い合う。歌と踊りは結びついている。その時は酒なども入り、非日常的な世界に入り込むのである。その時に使われる言葉に着目したい。そこで使われる言葉が詩へとつながってゆくのである。(続く)
映画『カラテキッズ』2010年版を見た。
この数日は気温が下がったようだ。今までは猛暑としか言えなかったが、今日の朝も窓を開けると風が爽やかで、ようやく秋が来たかとホッとした。
しかし、毎年、このような猛暑が続くのだろうと思うときが重い。ところで、私は今、カラテキッズを見ていた。ひかりテレビでは、いろいろな映画が見れるので面白い。
20010年の映画だ。北京の情景が移り出されている。30年ぐらい前と比べるとかなり経済発展を遂げたようだが、やはり、ここに住むのは遠慮したいという気がする。
街の中心は発展しているが、横丁に行ったりするとまだまだ後進国の風景という気がする。
さて、ストリーだが、アフリカ系の少年がカンフーを習って、いじめっ子たちを撃退するという話だ。それはそれでいいのだが、第一作から第四作まで、日本の空手が対象だったのに、この話からは中国のカンフーが中心だ。
アジアにおける中心が日本から中国に移動したことを示す象徴的なことだと思う。日本文化は、もう経済の発展からの応援は受けられない。日本文化は、それ自体の魅力で世界の映画界で頑張ってゆくしかないのだな、と感じた。
どこか英会話教材を買ってみたい。
英会話がペラペラになりたい。外国人と自由に会話できるようになりたいという希望はみんなが持っている。でも、それはなかなか実現できるものではない。
無駄に歳をとってゆくという焦りを感じる。それには、自分のかなりの決意が必要だ。
やはり、思い切った何か学校にゆくこと、それが叶わないのならば、英会話の教材を購入してみたいと考えている。
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